村山聖の生涯で感じた『自分』の本質

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昨日、村山聖氏の生涯についてテレビでやっていました。

 

もう単純に感動して涙が出るとともに、もっと自分はできるという勇気が出てきました。

 

ご存じない方は、まずは『村山聖』で検索してみてください。

まずは、村山聖-ウィキペディア をご覧になっても良いかも。

 

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自分

棋士村山聖の生涯をテレビで見て感じたのは、『本当の自分』をもっている人の姿、現れはこういう感じなのかもしれない・・・ということです。

 

一言で『自分』といっても意外にわかりにくい。

 

・自分をもつ

・自分を感じる

・自分を大切にする

・自分を意識する

なかなか難しい・・・

 

村山氏の生涯からなぜ『本当の自分』をもっている人と感じたのか?

私個人の意見ですが・・・おそらく・・・

 

『自分が病のこともあり、長く生きられない、なんでもできるワケではない。』と村山氏本人が認識されている。

 

その認識があったからこそ、幼少の頃から日々無意識に『自分が生きる』ことを常に考えてこられた。

 

そこには、変に生き方、生き様、あり方・・・云々・・・という考えはないように思いました。

 

私個人の意見ですが、生き方、生き様、あり方を意識することは、他人を意識すること、世間を意識することに少なからずつながるのではないか?と思うのです。

 

『本当に自分と向き合う』

 

とは、結局生き方、生き様、あり方という括りをも超えて、『本当の意味で自分が納得できるか否か』という問いと向き合って答えを出しながら生きることだと思いました。

 

ものすごく短絡的に言うならば、究極のわがまま。

 

わがままと言うと、なにかネガティブなイメージですが、究極のわがままは、他人も理解でき、感動できるものであると思います。

 

中途半端なワガママではなく、本当の意味での自分中心主義。

 

ではどうすれば・・・

生物の最高レベルの究極の欲求は、

 

『生き延びること』

 

生き延びるという課題に対して、今の自分ができることは?

 

お金を得て、そのお金で飯を食い、人生を楽しむ

 

お金を得るには、『仕事』

 

更に『仕事』も楽しめば、人生の楽しさも増える

 

仕事の楽しさとは?

 

他人の喜び、自分の社会的な存在価値、誇り

 

ゆえに、

他人に喜びを与えることは、

自分が、他人に喜びを与えられる存在であるという自尊心と直結するものであるので、

究極的な幸福と直結する。

 

おそらく、村山氏は、生きたい、自分が強くなりたい、名人になりたい、羽生氏に勝ちたいという欲求を認識されていたと思います。

 

一見すると自己の欲求ばかりですが、社会のルールや将棋の世界においては正当であり、その欲求こそがファンを魅了していたのだと思いました。

 

つまり、村山氏は、生物の最高欲求である生き延びることと、将棋という世界で勝負に勝つということで、ファン(他人)を魅了し続けた人なのだと思います。

 

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